お練りまつりとは?
お練りまつりとは、どんな祭りなのか?
その由縁と催しの内容、また目玉の出し物「大名行列」と「東野大獅子」についてご案内します。


 諏訪神社の祭神は、建御名方命(たてみなかたのみこと)と妃の八坂刀売命(やさかとのみこと)の二柱で、建御名方命は大国主命のお子様で、出雲から信濃ヘ渡られ諏訪を神居と定め、国土を開拓された神様です。
 桓武天皇の頃、坂上田村麿が陸奥の蝦夷征伐の途上、諏訪明神へ祈願をこめて奥州路へ下ったところ、神助を得て蝦夷を平定出来たのに感謝し、桓武天皇に奉上して諏訪神社の社領を増加し、信濃一国に社殿の修造を賦課し、七年目毎に改造させる制を定めた。これが諏訪を初め当地方で行なわれている「御柱祭」の初めと言われている。それに起源して寅(とら)と申(さる)の式年毎に諏訪では式年御柱祭が、飯田では御興渡御(みこしとぎよ)の式年大祭が行なわれている。大宮神社の御興渡御は、大神が信濃の国の統治と発展を心に掛けられ、しばしば巡見せられた遺徳を迎いで、飯田の治平と繁栄の現況を神覧に供する意味からと言われている。


 この大宮諏訪神社の式年祭礼に合わせて行なわれているのが「お練り祭リ」で、大勢の人が街に出てねり歩くことから、こう云う様になったらしい。
 途中五十余年の休止の時期もあったが、正徳五年のひつじ満水の折、住民が大宮神社の神明様に加護を祈願したところ、幸に飯田の町は泥の海となる難をまぬがれた。領民はその神徳をたたえ、翌正徳六年の申年に中断していた祭りを再興し盛大に奉納するようになったと言われる。
 その出し物も年代により趣好がこらされた。
 度々の火災で道具の大部分を消失してしまったが、大名行列や東野の大獅子舞などが伝統を受け継いでいる。


 飯田お練りまつりのメインの出し物の大名行列は、本町三丁目の出し物で、明治五年申年のお練りが初回。若州小浜城主、播州姫路城主、奥州仙台城主等の持物を入手したもので、様式は百万石の格式と称せられ、男持薙刀、白車熊槍、富士形槍などは国宝級の逸品である。行列の仕方、所作、芸は往時を継承しており、市街地を練る絢爛豪華な行列は徳川三百年の風俗を偲ぶことができる。
 大正八年に東京で挙行された奠都五十年祭(市制三十周年)に招聘せられて天覧の光栄に浴し、当時の関係者から日本一の折紙付の文化財である。


 重量30キロの大獅子頭による幌獅子舞。三百年余の歴史を有する。
 我が国の能の原典と言われる宇天王の優美華麗な舞、雄壮豪快な頭、妙技な笛大鼓の調べが三位一体となって織りなす一大絵巻は郷土芸能の圧巻と言える。
 「道中起し」「大門口の舞」「古所望まだかの舞」があり、大獅子を起こして寝かせるまでを舞う獅子舞は全国に例がなく、専門家からは日本一の折紙を付けられている。


 伝統の祭、お練まつりが開催される飯田市は信州の小京都とも形容され、長野県南部地域の中核を担う山岳の都です。この飯田市を中心とした「南部の信州」つまり、【南信】(なんしん)地域には数多くの伝統芸能が昔と変わらず息づいています。
 飯田地域は中央アルプスと南アルプスの山々に抱かれた「伊那谷」の南方に形成されており、まさに「山都」の名に相応しい場所です。また山ばかりでなく、諏訪湖より流れ出た「天竜川」が遠州へと、伊那谷を貫き注いでおり、この山都に潤いをもたらしています。
 その中心にある飯田市は、かつては飯田城の城下町として栄え、今日まで発展してきました。碁盤の目様に整備された町並みは、かつて大火による市域の約80%もの焼失があった事を思わせないほどに、ここが城下町であった事を今に伝えています。そしてまた、市内を横断するように整備された「りんご並木」(日本の道100選に選定)は大火からの復興のシンボルとして、全国にその名を知られるようになりました。



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